大田の口説き


【新盆踊歌】

清成正明氏 作詞

エヤサー記念のこの六調子 温度とるのも力の限り

暑い折なら踊り子さんも エーサー頼むよお手先シャント

 

時は昭和の二十と九年 秋も十月ついたちからは

田原・朝田の二つの村が 力あわせて伸びなんものと

近い新たにその名も大田 大田村よとうぶ声あげる

さても大田の由来を問えば 朝田・田原と田につらなれば

太く大きく栄えんものと 希望明るく力もこもる

さればその意気積りてここに 小粒ながらもすくすく育つ

 

村の歴史を尋ねるなれば 古き時代のその物語り

幡竜山とてその名も高き 報陀禅寺の開祖とあがむ

悟庵禅師の功徳のほまれ 千手観音きこえも高し

築く文化の基(もとい)もここか 田原別符とその名に残る

豊後六郎あの泰広や 田原氏能師氏直軍の

吾等祖先のつわものどもは 遠く都に筑後の川に

南日向の耳川などや 蒙古来れば博多の浜に

武名とどろく働きなさる

 

時は移りて天正九年 黒田・大友その戦いは

金ヶ浜なる波多方地区の 城に残れるいくさのあとよ

 

それやその頃中国路には その名名高き大内氏とて

昔に聞こえた一族でござる あわれ家来の陶晴賢(すえばるたか)に

討たれ給いて一部の人は 田原別符の小野村さして

ここに落ちのびすまいをなさる 今も伝わるお墓の由来

 

時はすぎにし徳川時代 固く禁制のあのキリシタン

かくれ信者の名残りを問えば ところ難所のチシャの木峠

下りついたる寺山地区に心試しの改め具となりし

 

これやこの里沓掛にては 古き名残りのどぶろくまつり

遠く近くの村人達は 今も親しむ白髭宮よ

古き文化の香りはつきず 鎌倉時代の国東塔や

夕日輝く五重の塔に ありし昔をはるかに偲ぶ

 

近き明治のその始めには 田口昌範私塾をおこす

習説校とてその名も聞ゆ ここに学びし幾多の子弟

日本六十余州に及ぶ 見事咲きにし教育の花

たたえまつらんそのいさおしを

 

いやざ村人手に手を取りて 強く歩まんこの村づくり

共につくらん明るい未来を